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 石州街道銀の道には。石見銀山の中心地であった大森より、銀の積出港となっていた日本海側の港と瀬戸内海側の港へぎんを積出す為
 に、造られた道で、日本海へは鞆ヶ浦に向かう「鞆ヶ浦道」と、温泉津の沖泊に向かう「温泉津沖泊道」があり(共に世界遺産)、瀬戸内海
 へは、尾道に向う「尾道道」と、途中の宇賀(現在の広島県三次市甲奴郡宇賀)で分岐して笠岡に向かう「笠岡道」が造られた。
 16世紀前半、石見銀山開発初期は、「鞆ヶ浦道」が利用され、日本海にある鞆ヶ浦港が銀の積出港であった。その後、同じ日本海にある
 温泉津の沖泊が銀の積出港を担うようになり、「温泉津沖泊道」が利用されるようになる。しかし、冬の日本海は季節風が強く、船の航行
 の支障が多く、徳川幕府の天領となった1600年代には、安全な陸路で大量の銀が運び出せるように、大森から中国山地を越えて、尾道の
 港まで35里(140km)におよぶ瀬戸内海への道「尾道道」が整備され、瀬戸内海にある尾道港が銀の積出港としての機能を担うようにな
 る。また、尾道に至る途中の宇賀より笠岡の港に至る「笠岡道」も整備され、同じく瀬戸内海にある瀬戸内海にある笠岡の港も銀の積出港
 としての地位を確立し、石見銀山からの瀬戸内海への銀の輸送は幕末まで行われた。 −ウィキペディアよりー   
  2018年10月9日(火曜日) 銀山街道(1) 大森代官所跡〜龍源寺間歩〜坂根口 
 
大森代官所跡から坂根口番所跡へ(1)
 「慶長の頃より寛永にかけて銀山が大いに繁盛して、稼ぎの人数は20万人、1日で費やされる米穀は1500石余り、昼夜の区別なく車馬が
 行き交い、家の上に家を建て、軒は軒の下に連なっている。銀山近くの港々には各地から来た大船が先を争って錨を降ろし・・・・」 と
 「銀山日記」には当時の繁栄ぶりは書かれている。海路で銀が運ばれたのが、温泉津の沖泊港と馬路の鞆ヶ浦である。
 今回の街道歩きは世界遺産に認定されている「温泉津沖泊道」を歩くことにする。 
大森代官所跡 銀山資料館 大森の街並み
大森代官所跡
 8:40 銀山街道歩きの旅は大森代官所跡からスタート。正面には1815年に建造された表門と長屋門。敷地内には明治時代に設営された
 郡役所があり、現在は石見銀山資料館として使われている。鉱山資料や奉行代官資料など800点が展示されている。
 代官所を後にすると、赤瓦の街並みが続いている。この町並みは寛政12年(1800年)の大火後に再建されたもので、防火や類焼を防ぐ為
 瓦葺、塗屋造りの建物が多く建てられている。町並みの特徴の一つが一般的な城下町で見られるような武家地や商家町、寺町の区別が
 明確ではなく、武家屋敷(役宅)と町屋建築が石見銀山街道沿いに混在し、寺院や神社、陣屋は山沿いに配置されている。
 
熊谷家住宅(左) 青山家(郷宿旧田儀屋) 風情ある宿(左 ひろた屋)
代官所ゾーンの歴史的建造物群
 代官所ゾーンは代官所を起点にした町並みが約1kmにわたって続いている。このなかには代官所とかかわりの深い建物が多く、代官所
 の御用商人を代々務めた石見銀山最大の商家熊谷家住宅や代官所に所要のある人が泊まった青山家などがある。また、手作り銀細工
 銀兵衛の先に石見銀山大森郵便局という日本で一番長い呼び名の郵便局もある。
 
防火器具入れ 昔懐かしい理容院 石見銀山大森郵便局と赤ポスト
街を彩る小物
 街道筋には景観に配慮した防火器具庫や懐かしい昭和レトロの理容院や赤ポストなどがあり、散策に趣を添えてくれる。
 
重要伝統的建造物群保存地区と観世音寺 代官所ゾーンの街並み 武家・町屋ゾーンの眺め(マウスON 旧大森裁判所)
観世音寺からの眺め
 代官所ゾーンの終点、小高い丘の上に立つ観世音寺の急な石段を登ると重要伝統的建造物群保存地区の町並みが一望出来る。
 赤褐色の石州瓦の屋根が街道沿いを埋めている。
 観世音寺の四つ辻の小川を渡り、武家・町屋ゾーンに入ると右手に、明治23年開設の旧大森区裁判所町並み交流センター)があり、
 向かいに代官所地役人旧河島家がある。この先にも柳原家、阿部家、金森家などの武家屋敷とカフェや土産物店などが続き大森独特
 の町並みが続く。
 
旧河島家 反り橋 五百羅漢
五百羅漢
 武家・町屋ゾーンのはずれを左に曲がった右手に、短命だった銀山工夫達の菩提を弔った羅漢寺がある。数歩で渡れそうな銀山川に風
 情のある3本の石橋が架っていて、手掘りで掘った石窟に表情豊かな500体の羅漢像を祀った五百羅漢が安置されている。
 羅漢寺(らかんじ)の五百羅漢(ごひゃくらかん)は、大森の観世音寺住職 月海浄印という方が、銀山で働いていて亡くなられた方の供養や
、労働者の安全のために発願され、多くの方の寄進によって、二十五年かかって明和三年(1766)3月に完成しました。また、羅漢寺はこの
 五百羅漢を護(まも)るために建立されたそうです。
 五百羅漢の造りは、小川を挟んだ寺向いの岩山に、三つの石窟が掘られ、小川にはそれぞれの石窟に入る石で出来た反り橋が架けられ
 ています。中央の石窟に釈迦三尊、左の石窟に阿難尊者を中心に251体、右の石窟に木蓮尊者を中心に250体が安置されています
 
街並みにマッチした自動販売機 渡辺家 大森小学校
銀山公園から銀山ゾーンへ
 五百羅漢から少し引き返し、四差路を西に300mほど歩くと銀山公園がある。広い駐車場を持つ公園には観光案内所や石見銀山ガイドの
 会の事務所があり、パンフレットや情報を入手できる。
 銀山公園を出ると、かっては銀生産の中心地、銀山地区に入っていく。およそ600を超える間歩(まぶ=坑道)の跡が点在し、銀の精錬
 設備の下河原吹屋跡や清水谷精錬所跡などがある。
 
道標と大久保長安碑 下河原吹屋跡 大久保石見守墓所
下河原吹屋跡
 銀山公園から7分程で大森小学校、その先に道標と大久保長安碑が立ち、下河原吹屋跡がある。
 下河原吹屋跡は江戸時代初期の銀精錬遺跡で、石見銀山が最も栄えた時期を伝える遺跡です。下河原吹屋遺跡の奥に初代の銀山奉行
 となった大久保石見守長安の墓所があるが、通行止めのロープが渡してあった。 大久保石見守長安こそは江戸時代初期のシルバーラ
 ッシュをもたらした当事者でした。
 さらに、その先に清水谷精錬所跡の案内がある。明治時代、良質な銀鉱石を精錬するために巨額の費用をかけて建設された近代的な
 精錬所跡だが、今回はパスして先を急ぐ。
  
山吹城跡登山口 新切間歩入口 福神山間歩
山吹城跡登山口
 下河原吹屋跡からすぐ先に銀の店工房があり、公衆トイレを過ごすと山吹城跡登山口がある。ここは銀山街・道鞆ヶ浦道の分岐点で
 もある。この山吹城は、標高414mの要害山山頂にある城跡で、戦国時代30年にわたって、小笠原・尼子・毛利氏らが銀山の支配を巡り、
 この城の争奪戦を繰り広げた場所である。
 新切間歩、福神山間歩を過ぎると高橋家(山師遺宅)がある。高橋家は、銀山町年寄山組頭の遺宅で茶室を設け、付属建物では酒造
 なども行っていたという銀山屈指の建物です。
 
高橋家(山師遺宅) 銀山川沿いの道を進む 龍源寺間歩
龍源寺間歩
 高橋家を後に資、大小の間歩を見ながら歩いていくと、やがて左手、川向こうに龍源寺間歩が見えてくる。
 龍源寺間歩は、御直山(おじきやま)五ケ山の一つで、江戸時代の中頃に開発された代官所直営の坑道で、大久保間歩に次いで長く、
 公開されていない部分まで合わせると約600mある。この坑道は1718年(江戸中期)に開発が始まり、228年もの長い歳月をかけて開かれ
 1943年(昭和初期)に閉山された。
 現在、公開されている唯一の間歩(大久保間歩は限定ツアー)である。以前に見学したことがあるので入抗はパスして写真だけ。
 
舗装路終点 沖泊10.6kmの標識 坂根口番所跡
坂根口番所跡
 龍源寺間歩から少し先、5分程歩くと舗装路が終わり、開けた場所に坂根口番所跡がある。番所跡の説明板には
  古図によれと、江戸時代、石見銀山の周囲には柵を巡らし、その柵には街道に通じる10か所の出入口に番所を置いていました。
  番所では、人の出入りを監視するとともに、商人が銀山に運び込む物資に課税し、徴収していました。10か所の番所の位置は
  時代によって変わりますが、その一つであるこの坂根口番所は、銀山の西側、港のある温泉津と銀山を結ぶ主要街道への出入口
  の番所として江戸時代を通じて設置されていたようです。
 番所の建物は現存しませんが、現在案内板が建っている辺りにあったと伝えられています。

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