おしどり登山隊                                             |風便りへ ホームへ 
銀山街道(2)    坂根口〜降路坂〜五老橋〜ヨズクの里〜中村の題目塔〜松山の道標〜沖泊〜温泉津温泉
坂根口 木橋を渡る 細い山道
10:25坂根口出発
 坂根口の番所を出ると、柵内を離れ、いよいよ銀山街道温泉津・沖泊道の始まりです。一般観光客は足を踏み入れられない銀山街道
 最大の難所、降路坂の峠が待つ山道です。
 銀山川を左足下に見ながら広い道緩やかに登っていくと、砂防ダムの手前で木橋を渡り、狭い山道へと入っていく。橋を渡った先に降路
 坂の案内板があり、
  「ここから西田村境の峠まで1.1kmの曲がりくねった急な坂道を「降路坂」と呼ばれています。この街道は西田、湯里を経て温泉津
  まで銀の輸送路です。この坂道の途中には梅雨左衛門を祀る大岩や苔むした屋敷跡が点在し、銀山華やかりし頃が偲ばれます」
 とある。
何度か渡渉を繰り返す 整備された木道 道が失われ川の中を行く
降路坂
 川に沿った細い山道を進んでいくと、木橋から4分程で最初の渡渉地点が現れる。何度か渡渉を繰り返し、「降路坂 0.9km」の標識を
 過ぎると道は消失し、川の中を歩くようになる。雨の日や水量の多い日は歩行困難、街道歩きは中止だ。
降路坂一番の急登 かっての展望所? ジグザグの広い道
降路坂
 川から離れ、山腹を歩くようになると傾斜が増し、谷奥に向かって横木の急階段を登っていく。やがて国土地理院の登山道から右に離
 れていくと道幅の広いジグザグの緩やかな道なる。
 ベンチのある休憩所には「仙の山・石銀と要害山」の案内板が立っているが、今は樹木が茂り展望は無くなっている。そこから10分程
 登ると降路坂で唯一の展望所がある。 日本海から山吹城山の展望が広がっている。
降路坂で唯一の展望所 日本海から山吹城山の展望 降路坂の茶店跡
11:25 降路坂頂上
 降路坂は、銀山街道最大の難所とされたところで、「降路坂の戦い」の舞台でもあります。1559年(永禄2年)、銀山奪取を目論む毛利 
 元就が尼子軍の守る山吹城を攻めた時のこと。城の守りは堅く、元就が撤退を決めて降路坂にさしかかったところで尼子軍の追撃に
 会い、「もはやこれまで」と自刃の覚悟を決めたその時、渡辺通ら7人の武将が元就の影武者となって尼子軍の目をくらませ討ち死に、
 主君・元就の命を救ったという話です。
 仙の山(銀山)や山吹城、日本海を眺めながら坂道を登ると、標高430mの頂上に到着する。1940年(昭和15年)代までは峠の茶店が
 あったと云われ、今は茶店の礎石だけが当時の賑やかな往来をひっそりと伝えています。
降路坂の茶屋跡から下る 丸太を束ねた階段 通行注意の看板
降路坂七曲り
 降路坂の茶屋跡からは急な下り坂になる。矢筈城と矢滝城に睨まれた谷を下る街道だ。路肩注意の看板が次々と立っている。補修され
 た木道は丸太を束ねた階段だ。今日のような天気の良い日でも滑りそうな急階段だ。雨が降ったり、古くなって苔むしたらとても歩ける
 ようには思えない。せめて手摺があったらと・・・・。
降路坂の題目塔 矢滝城山の看 降路坂の終わり
降路坂の題目塔
 急坂が終わり、しばらく歩き「銀山道入口」の看板を過ぎると、「降路坂の題目塔」の案内があり、左上を見上げると石塔が林の中に見
 える。題目塔とは、「南無妙法蓮華経」と刻まれた供養塔である。道中、亡くなった人の鎮魂なのだろうか。
 題目塔の先には、「矢滝城山」の案内板があるが、木が茂って何も見えない。「周防国守の大内義興が銀山開発を始めた時、銀山防衛
 のため、1528年に矢滝城(634m)を築城した」とある。毛利氏の支配となると、その家臣で太田市祖式町あたりを本拠としていた国人、
 祖式元勝の居城となった。
 道が平坦となり、前方が明るくなると降路坂は終わりとなる。
鉄橋を渡る 最後の渡渉 五老橋を右へ
12:05五老橋
 森を抜け、荒wれ田鉄橋を渡り、石積に沿って進み、右岸へ渡渉すると、間もなく舗装路になり五老橋の袂に出る。
 左は五老橋を渡り、矢滝城への道。直進すると沖泊7.4kmの標識。明日は矢滝城山に登る予定だが天気が・・・・・・?
舗装路から旧道(銀の道)へ 木道を進むと・・ 西田の石仏
12:12 西田の石仏
 五老橋を過ぎると、すぐ「銀の道」入口がある。入口を降りると川沿いの細い道が続き、木道を進むと「西田の石仏」が右手にある。
 ここが西田集落の入口だ。谷筋が終わり、開けた場所に出ると、五老橋からの車道に合流する。
七曲りの案内版 西田の集落へ コミュニティ よずくの里
12:20 ヨズクの里(西田)
 七曲りの案内板を過ぎると温泉津町西田の集落に入っていく。 西田(にした)は、石見銀山と温泉津を結ぶ街道のほぼ真ん中あたりに
 位置している。 そそり立つ430mの降路山、そして並び立つ638mの矢滝山、石見銀山を往来する人たちは、この険峻の麓で名物の
 晒葛に舌鼓をうちながら一休みしたのだろうか。 私たちも険しい山々に囲まれた、今はのどかな西田宿で一休みする。
 巨大なヨズクハデが展示してある「コミュニティ よずくの里」の縁側を借りて、コミュニティを訪れる人たちに、古き良き時代の話を聞きな
 がら昼食にする。
ヨズクハデうしろは瑞泉寺(ずいせんじ) ヨズクの里
ヨズクハデ
 西田には「ヨズクハデ」という四角錐の独特な形をした稲架(ハデ)が伝わっている。「ヨズク」とはフクロウの方言で、稲のかかった様子が
 フクロウの羽を休める形に似ていることからこの名がついた。その昔、水上神社にまつられている二柱の海神が、強風で倒れる稲ハデに
 苦心していた里人に、海岸で漁網を干す方法を教えたのが始まりという伝承が残っている。「ヨズクハデ」は太田市の有形民俗文化財に
 指定されており、現在は保存会によって毎年秋に作られている。 
西田の集落 銀の道(旧道)へ 旧道
12:50 西田から中村の題目塔へ
 西田宿を後にして10分ほど歩くと「銀の道」の案内があり、旧道に入っていく。旧道は10分ほどで再び車道に合流する。
中村の題目塔 銀の道へ 平坦な道が続く
13:20 中村の題目塔
 車道を10分ほど歩くと左手に苔むした「中村の題目塔」が見えてくる。道標も兼ねたもので側面に
    右八 ゆざと(湯里)みち
    左八 ゆのつ(温泉津)みち
 とある。 その先10mに案内板と標識があり、車道と別れ山道「銀の道」へと坂道を登っていく。10分も登ると道は平たんになり、快適な
 古道となる。
 
石畳 将棋岩 清水集落の峠
13:35将棋岩
 当時の街道を偲ばせる石畳の残る道を、緩やかにアップダウンを繰り返しながら進むと、堂床山の説明板と共に将棋岩の案内がある
 平らな大岩がある。説明板には、「1589年8月、豪雨による山津波で麓の寺院や人家が土砂に飲まれた。この岩はその時に堂床山から
 転がり落ちた巨石群のひとつ(転石)。江戸時代になると、馬子たちが転石を将棋盤にし、将棋をさしながら休憩したという。それで将棋
 岩という」と、書いてある。
 将棋岩からさらに10分、展望の良い峠に着く。一面の柿畑には柿がたわわに実り、秋たけなわの風景が広がっている。峠のベンチの前
 には清水から見た山々の写真が立てられ、山の名前が記されている。そして〜その昔、街道を歩いた人も見た風景〜とある。
 右手の高い山が矢滝城山、低くなったところが降路坂、左が矢筈城山・・・・いにしえの旅人も振り返って感慨にふけったのだろうか?
清水の金柄杓 瀧光寺 瀧光寺下の街道
13:50清水の金柄杓
 柿の里で小休止した後、柿の実がたわわに実る坂道を降りてくると、清水集落の中ほどに清水の金柄杓と呼ばれる泉がある。岩と民家
 の石垣に囲まれて湧き出る清水は、その昔、泉の水のおいしさに感動した大森の代官が、当時は高価だった金属製の柄杓を奉納した
 ことからこの名がついたと伝えられている。
 瀧光寺を正面に見ながら右手に進むと「温泉津温泉 2.8km」の標識がある。舗装された道を5分ほど歩くと「清水大師入口」の標識が
 ある。直進すると清水大師、右折すると「清水の古道」となり、山道の登りとなる。これが最後の坂道だ。
 
清水集落の分岐点 清水の石畳 清水の石切場
13:55 清水の古道入口
 13:55 舗装された道を5分ほど歩くと「清水大師入口」の標識がある。直進すると清水大師、右折すると「清水の古道」となり、再び山道
 の登りとなる。これが最後の坂道だと思い元気を出して登る。
 ピークを過ぎると緩やかな下りとなり、岩盤を削って石段にしたような「清水の石畳」と呼ばれる坂道や、ふつうの石畳の道もある。ちかく
 には土橋などがあり、往時の街道の様子が最もよく残っている。また、途中には福光石の石切場跡も残っている。
 福光石は室町時代の石仏や墓石でも見られ、石見銀山の五百羅漢でも用いられている。
松山の道標 車道を横切り、萩の花に覆われた旧道を抜け、再び車道へ
14:10 松山の道標
 古道の雰囲気を楽しみながら15分ほど歩くと「松山の道標」がある。この道標も福光石で出来ており「右 銀山大森五・・ いづも大や・・」
 と刻まれている。
 松山の道標を後にし、ダンプカーが行き交う2車線の道路を横切り、秋の草花が茂る道を進むと、狐の出迎えを受けて再び広い車道に
 合流する。そしてここから先、「温泉津沖泊道」はひたすら舗装路を歩くことになる。
運動公園のツツジの生垣の横を・・・ 恵比寿神社と浜の井戸(左下) 鼻ぐり岩への道
14:55 沖泊(おきどまり)
 「やきものの里」などの標識を見るも寄る気力なく、ダンプカーに急き立てられながら運動公園のツツジの生垣を過ぎると間もなく海が
 見えてきた。坂を下り、トンネルを潜ると沖泊の港へは100mの距離だ。
 緩やかに坂を下っていくと沖泊の港を見守るように立つ恵比寿神社が迎えてくれる。 そしてその前には浜の井戸と呼ばれる井戸が
 ある。
 恵比寿神社は、船人が海の神様として信仰した神社で、銀山発見と同じ1526年(大永6年)筑前国那賀郡の住人によって建立されたと
 されている。 また、浜の井戸は集落に住む人々が生活に利用していた井戸水だったそうで、またこの井戸水を沖泊に入港してきた船
 に与え、コメや酒と交換していたそうです。
荒れた狭い道 沖泊港 鼻繰り岩
15:05 沖泊の鼻繰り岩
 沖泊までは来たものの鼻ぐり岩への道が分からない。ちょうど通りかかったおばあさんに訪ねると「集会場の前の橋を渡っていけば、5分
 ほどで着くが、前に来た人は道が通れなくて引き返したと言っていた。私も長いこと行っていないが景色がいいとこだから・・・」と教えてく
 れた。 集会所の前の橋? コンクリートの板を渡しただけの橋だ。続く道は護岸の上、さらにロープを渡した狭い道を進むと、ハングル文
 字のペットボトルやプラスチックのゴミが山積みになった入り江。ゴミの山を乗り越え進むと蜘蛛の巣のガード。およそ観光地とは程遠い
 状態だ。きっちり5分奮闘すると岩場に到着し、沖泊の港の絶景が広がった。海に面した岩には鼻ぐり岩がいくつも見える。
 沖泊は、深い入り江と水深に恵まれ、早くから天然の良港として知られ、銀の積出や銀山での消費物資の陸揚げ等、銀山の外港として
 重要な役割を担っていました。 入り江には自然の岩盤をくり貫くなどして作った船を係留するための鼻ぐり岩が数多く残っており、かって
 の賑わいを今に伝えている。
 折角の観光資源なのに案内も無く、道も荒れていてはもったいないと思った。
 
ゆうゆう館 庄屋屋敷 内藤家 温泉津温泉街
15:35 温泉津温泉
 今回の街道歩きも無事終わり、後は今日の疲れを津野津温泉で癒し、泊まるだけだ。
 沖泊から海辺を歩き、温泉津ゆうゆう館から今日の宿のがわや旅館へ。そして今日の最後の仕事、大森代官所の駐車場に停めて
 ある車の回収に向かう。(料金4700円)
 今回の歩行距離  18.5km
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