地元の人に案内されて急坂を登る
今回の山旅は中国100名山(「山と渓谷」社による)にある城跡三山を巡る旅である。
まず初めは「鳥取の渇え殺し」(とっとりのかつえごろし)と歴史に残る、凄惨な4ヶ月にわたる篭城戦を
強いられた鳥取城跡の久松山だ。
鳥取県庁の前を通り、堀沿いに進んでいくと久松山の中腹まで城の石垣が築づかれているのが見える。
博物館の駐車場に駐車し、トレッキングシューズに履き替え小さなリュックを持って出発する。博物館の前
に仁風閣という重要文化財の建物がある。その横に城門をあしらった久松公園入り口がある。門を潜り、城壁に沿って進み広い石段を登ると二の丸に。二の丸御殿があっただけにすごく広い。ここにある三階櫓跡は元禄5年に山上ヶ丸の天守櫓が焼失したのちはここの櫓が鳥取城の象徴として明治12年の解体撤去までその威容を誇っていた。
二の丸の奥に稲荷神社があり、その右手から天球丸に続く石段が空に向かって延びている。ここで地元の人が案を買って出てくれた。
少し登ると天球丸への分岐、山頂登山口の標識もある。山頂から次々市民の皆さんが降りてくる。我々のガイドは皆さん顔見知りのようだ。
崩れた石段の横の急な斜面を登ると1合目の標識が立っている。城門を潜って20分五合目の久松御坂大権現の社に着いた。それにしてもガイドさんの早いこと。椎の実を拾いながら悠々と登っていく。大汗を搔いて一休みする。
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仁風閣 |
久松公園入り口 |
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石垣に沿って登っていく |
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広い石段を上がると広々とした二の丸に着く |
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稲荷神社 |
天球丸に続く石段 |
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天球丸との分岐が登山口 |
5合目 久松御坂大権現 |
五合目を過ぎると一段を傾斜がきつくなり、ランダムに置かれた石段の段差も大きくなってくる。ガイドさん曰く「城の石段は登りにくく作ってある。これで敵が疲れ果てるように!」 なるほど!と感心する。どおりで何処の城もキツイ石段になっている。
七合目、八合目と益々急勾配の石段になってくる。一生懸命ガイドさんについていくが、ついに九合目でギブアップ。
副隊長はなんとか付いていったが、隊長は少し遅れて山上ヶ丸に到着。
城主池田長吉が慶長7年から行った城内大改築の時に掘った[車井戸]を左に過ごすと一段高い天守台がある。
城跡に似合わない鉄の階段を登ると久松山山頂に立つ。眼下に西から北に向かって大展望が広がっている。
今日は生憎、PM2.5のような黒いガスに覆われ、大山初め遠くは見通すことが出来ないが鳥取砂丘が意外と近くに見えびっくりする。
山頂でガイドさんの話をひとしきり聞いてから帰路に着く。山上ヶ丸からは天正9年羽柴秀吉が鳥取城を兵糧攻めの際に本陣を構えた本陣山(太閤ヶ平)が1.5km先に見える。こんな近くに対峙していたのかと......歩いて1時間ほどの距離だそうだ。
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ガイドさん(地元の人)に一生懸命付いていく |
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9合目、ついに付いていけなくなった |
久松山山頂(山上ヶ丸) |
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鳥取市街 |
秀吉が陣取った陣山(太閤ヶ平) |
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山上ヶ丸全景 |
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西には湖山池 |
北方向には日本海と鳥取砂丘 |
急な坂を相変わらず軽快な足取りで下っていくガイドさんの後を必死で追いかける。
登山口でお礼を言って別れ、我々だけ天球丸に向かう。大きな二本の松が城壁の縁に立ち、城下町を見下ろしている。長く厳しい歴史を生きて、なお堂々と佇む巨木に感動さえ覚える。
文化4年(1807年)頃に崩れそうになった石垣を守るため築かれた丸い巻石垣を見て、次の山に向かう。
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ガイドさん、下りも早い |
この城の歴史を見てきた松の大木 (マウス ON) |
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修復された天球丸の巻き石垣 |
仁風閣 |
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巨木が茂る二の丸と長らく天守の代わりを務めた三階櫓跡 |
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仁風閣を庭側から |
ツワブキ 昔ここが海辺であった証か? |
ひとこと:呪われた城、鳥取城も今は市民憩いの場!・ |