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津和野街道は現在の島根県津和野町と、広島県廿日市市を結ぶ津和野藩参勤交代の古道です。津和野街道は津和野藩参勤交代
の道の他、和紙や穀類など石見地方(島根県西部)や山代地方(山口県北東)、山里地方(広島県西部)の物資の輸送や、厳
島神社、小島神社(吉賀町)、太鼓谷稲荷神社(津和野町)への参拝の道としても大変重要な道で会ったようです。
また津和野街道は、幕末から明治初期のキリシタン弾圧によるキリシタン流配の道として、現在でもカトリックの人達による
巡礼の旅が行われています。 津和野街道は古くは里道であったようですが、江戸時代の参勤交代制度により西国街道(山陽
道)から分かれる津和野までの脇街道となりました。
江戸時代の距離は「島根県歴史の道調査報告書」に18里18町2間(約73km)と記されています。現在の距離は古道と一般道
の利用となりますが約77kmです。
津和野側の起点は津和野大橋より長州街道を山口方面に1.4km、財間酒造さんの右横です。また廿日市市の起点は諸説
ありますが、「芸藩通志」の地図等から廿日市市砂原大橋としています。 −津和野街道公式ホームページよりー
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2020年10月27日(火曜日) 旧津和野街道 栗栖〜中道三島原 |
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栗栖〜中道三島原 (拡大地図はこちらをクリック)
今回の街道歩きは、広島県廿日市市から島根県津和野町を結ぶ昔の官道であった津和野街道(全長約77km)の内、中国自然
歩道の佐伯町栗栖から、悪谷、越ヶ原を横切り、中道三島原までの7km余りの街道歩きである。道筋のところどころには雨水
で道がいたむのを防ぐ為敷いた石畳が残されており、古く津和野街道の名残を偲ばせている
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■佐伯町栗栖入山口
9:30 国道186号線と県道廿日市佐伯線の三叉路を南に少し下った所の道路標識の横に「中国自然歩道 旧津和野街道」の
標識が立っている。すぐ隣にはチェーンの脱着場があり、ここに車を停める。通勤時間帯と重なり予定より30分遅れの到着だ。
標識のところから入っていくと、案山子と街道の案内板が迎えてくれるがその先には「工事中の為、悪谷林道は全面通行止め」
の不吉な看板も!計画では悪谷林道を通り、時計回りに周回する予定だったが・・・。
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■街道歩きに出発
9:35 入口の小道を登ると、一旦舗装された道に出るが、「イワタ木工所」を過ぎると地道になる。その先は落ち葉の積
もった道となり、あまり人も入っていない様子だ。すぐ先に大きな石を祀ったお堂ががあり、観音堂の説明碑が立っている。
観音堂から2分程行ったところに「石見津和野路」の説明板のある休憩所兼トイレがあり、入山記録のノートも置いてある。
ここが正式な津和野街道の入口なのだろう。
ここまでは何とか車も入れそうだが、その先は人が歩けるだけの道となっている。
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■石畳の残る道へ
奥へと足を踏み入れると、江戸時代に雨で道が荒れるのを防ぐ為に敷かれたという石畳が現れる。この石畳は廿日市市の史跡
に指定されている。 更に2,3分進むと「観音岩 上」のプレートが掛かる岩がある。先程のお堂の中の岩より少し大きいか?
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■石畳を踏んで
最初の木橋を渡ると苔むした石畳が連続する道となる。道端の杉並木も街道に趣を添えている。
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■渓流沿いを奥へ
小瀬川の支流となっている渓流に沿って道は続いている。渓流の護岸として積まれた石積みも苔むして、石畳と共に歴史を
感じさせる。
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■銀山公園から銀山ゾーンへ
熊に注意の標柱を過ぎ、10分程歩くと「休憩ポイント」のプレートが掛かる平らな場所に出るが、休憩に最適かどうかは判断
しかねる。 そこから再び石積みされた護岸の道を奥へと入っていく。
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■渓流を縫いながら
清流の流れる川に沿って緩やかに登っていくとオオズミの実が落ちていた。左岸、右岸へと連続して渡る二重橋の先には苔
むした長い石畳の道が続いている。
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■長い石畳の道が続く
こんなにも石畳の残る街道は数ある街道の中でも数少ないだろう。
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■10:50 松ヶ峠への取り付きへ
渓流沿いに続いてきた道が、だんだん険しくなり、川底の露岩を渡る。いよいよ松ヶ峠への本格的な登りに差し掛かる所に
観音滝があり、距離を記した標識が立っている。「栗栖2.4km 松ヶ峠1.2km」栗栖、悪谷休憩所の中間点にあたる。
残念ながら観音滝は樹木に隠れて良く見えない。
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■11:15 崖路を通り茶屋床へ
観音滝からは崖っぷちの高巻道となり、露出した岩の急な坂道を登っていく。崖路を過ぎると杉林の緩やかな道となるが笹の
林床からは今にも熊が現れそうだ。
悪谷林道へ1.8kmの標識を過ぎ、15分ほど登ると休憩舎が見えてくる。茶屋床の休憩所だ。 ベンチに腰掛け休憩する。
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